RINCOM

【特集】創刊号の誕生と街頭での「頒布」

【特集】創刊号の誕生と街頭での「頒布」

 戦後まもなく、丸山敏雄の確かな信念のもと倫理運動が発足し、『文化と家庭』(後に『新世』と改題)が創刊されました。手探りではじまった雑誌づくりの道のりには、数々の試行錯誤とエピソードがありました。本誌はどのようにして生まれ、世に送り出されたのか。『丸山敏雄 人と思想』(丸山竹秋著)をもとに、その歩みを振り返ります。

「『文化と家庭』発行――送本。朝より後藤氏に米をもちて行き、発送す。夜、雨中を竹秋、青山、宇宿が900冊かろうて来た。見事に出来た。100円ナシをかつて、たべた。」(『丸山敏雄 人と思想』)

 これは昭和二十二年十月十一日、丸山敏雄が日記に記した一文である。総四十八頁・五千冊の『文化と家庭』が「見事に出来た」とあるが、この創刊号には二つの大きな不備があった。一つは「創刊十一月号」とすべきところを「十月号」としてしまったこと。もう一つは取次店を経て一般小売店に並べる流通経路や広告などについて、ほとんど検討がなされていなかったことである。編集・発行を担った倫理研究所の職員たちは経験のない素人ばかり。皆、活字の大きさすら分からなかったため、見かねた印刷所の社長の後藤氏が社員に手伝わせ、ようやく出来上がった雑誌であった。

 創刊号が刷り上がったとき、竹秋が明朗社印刷所へゆくと、後藤は雑誌をしげしげと手にとってみて、「ううーん、いけませんね。」と、うめくようにいった。玄人がみると、これではだめだという意味である。(中略)これは後の話であるが、第二号を印刷するとき「八千か一万部にしたい」と黒沢や竹秋が後藤にいうと、後藤は首を左右に振って、「それは、およしなさい。」といったくらいである。

 さらに、この五千冊を世に送り出すには多大な労力を要した。印刷所で荷造りをし、雑誌にムシロをかけ、小雨の降る中、借りたリヤカーを引いて郵便局へ向かい、広島や九州などの知人宛てに発送した。残った三千冊余りは、敏雄を含めた四人がリュックサックや風呂敷包みにいっぱい詰めこんで、二日間かけて武蔵境の高杉庵まで混雑した電車で運んだ。
 

 その後、委託できる先にはすべて委託したが、未だ二千冊が残り、山のように積まれたままであった。

 前に送付したところからは入金もない。残った二千冊はどうにかして売らなければやってゆけない。しかし小売店では、そんな売れそうもない雑誌を置いておく場所が店頭にはないと断られ、知人にはすべて頼んでしまった現在、どうしてそれらの二千冊を頒布すればよいのか。(『丸山敏雄 人と思想』)

 敏雄は儲け仕事ではないという信念から「売る」「販売する」といった言葉を避け、「頒布」という表現を用いた。しかし、もはや頼るべき相手も尽きてしまった――そうした困難な状況の中であっても、敏雄は研究発表会のために茨城県の水戸へ赴いた。そしてある啓示を得たのであった。

「問題にぶつかったとき、夜寝る前に心を定めてやすむと、夜中や朝などに答を得ることがある。」とは、しばしば敏雄の語っていたところである。はたしてその翌朝、といってもまだ夜中であるが、回答が与えられたのであった。
「昨夜より、新世会の根本方針について、神意を得んとし、今朝二時、之を得たり。
  1 街頭に立て。
  2 菊水の如き旗を立てて、鮮明にはたじるしをせよ。
  3 やがて苦学生等も来り投ぜん、助けん。」

 (「日記」・十一月六日)

 翌日、敏雄や職員たちは街頭頒布の実施について検討し、実行にうつすことを決定した。この日の日記には次のように記されている。

「ここに、いよいよ街頭に立ちて、天下一品の宣布法をとるに決す。」

(「日記」・十一月七日)


 

 そして十一月十一日、雑誌や『文化と家庭』と書いた手作りの旗を持参し、新宿駅付近で第一声をあげようとする。ところが、淀橋警察署の警察官から、こうした行為を行なうには事前に警察から許可をもらうことや、進駐軍へ申し出ることも必要であると注意され、頒布を中止することとなった。その後、武蔵境駅まで戻り、駅前の交番で許可を得て、やっと第一声を上げることができたのである。
 はじめに職員たちが交代で演説しながら雑誌を紹介したが、立ち止まる人はほとんどいなかった。やがて敏雄が「私がやりましょう」と言い、『文化と家庭』と書かれた旗のもとに進み出た。それから三十分間にわたって駅前を行き来する人々に向けて熱弁をふるった。しかし、雑誌は二、三人の通行人が覗いただけで、ついに一冊も頒布できなかった。それが記念すべき第一回目の街頭頒布の結果であった。
 しかし敏雄たちは、そのことでくじけることはなかった。十一月二十一日からは、多くの人が行き交う上野駅近辺で頒布を再開する。職員の一人は乗車を待つ長い行列の一人ひとりに雑誌を見せながら内容を説明し、七冊の頒布に成功した。このことがきっかけとなり、他の職員も上野での街頭頒布を行なうようになる。

 早朝四時半ごろの一番電車に乗り、(中略)雑誌をかかえて上野駅に午前五時半ごろ到着する。すでに行列作りは始まっている。毎日、表口で十本ぐらい、裏口で八本くらいの列に呼びかけるのである。朝が早いので、十六時の水戸行で頒布は打ち止めにしていたのが、夜も表口にならぶ列があるというので、二十一時半の東北本線青森行の分まで頒布して帰ることもしばしばであった。(『丸山敏雄 人と思想』)

 敏雄も上野での頒布に毎日のように出かけた。それに加えて、職員へ原稿の執筆指導を行ない、自らも原稿を書いた。校正刷りが来ると一字ずつ目をこらして確認し、雑誌が仕上がるとそれを風呂敷に包んで街頭頒布に出かける。その間に書道の弟子たちの指導にも取り組み、肉筆の手本を書き、短歌の添削もし、自らも詠む。さらに、研究活動にも励み、その発表も毎月休まず行なうのである。たまに「なかなか忙しいね」などと笑顔で言うことはあるものの、休むことなく連日働き続けた。
 そうした中、上野駅での頒布活動が活性化し、五十冊、百冊、二百冊……と多くの雑誌を頒布できるようになっていく。さらに、自宅の一室を休憩場所として利用させてくれる会友も増えていった。
 やがて、敏雄が来ると上野に住む会員たちが集まり、座談会が行なわれるようになっていく。そして「夫婦や親子関係の悩み、商売のことなどで指導を受けられる場所を常設してほしい」という要望が出たことで、相談所を開設することになったのである。

 東京でも(中略)人々のすすめによって、上野の池ノ端にささやかな家事相談所をひらき、三の日と八の日にはしばしば座談会をひらいた。少しではあるが、しだいに会員もふえて来た。(『丸山敏雄 人と思想』)

 こうした動きが、現在の倫理運動の活動拠点を拡げることにつながっていったのである。

2026年9月号